高島町萩の浜には、昭和16年4月6日に起きた第四高等学校漕艇部遭難の碑がある


11人の全遺体が確認されたのは遭難2ヶ月後。この間、遺族たちは大溝町に泊まり込み、わが子の帰りを湖岸で待ちわび、湖畔は悲しみに沈む。それから間もなく,11人の若い霊を慰める
比良の白雪とけるとも
風なお寒き志賀の浦
オ-ルを揃えてサラバぞと
しぶきに消えし若人よ
哀調を帯びた琵琶湖哀歌が、野火の広がるように県下一円に広がった。だが、その感傷をとばすようにその年、日本は第二次世界大戦へ突入していった。
<「滋賀百年」毎日新聞社:昭和43年9月15日発行:松村英男編集より引用>
萩ノ浜(高島町)には石碑が立っています。また、霊を弔って植えられた千本桜は、いまも春になると萩ノ浜に美しい花を咲かせる桜があるというので、この地を訪れてみました。

北小松在住M氏:皆さんご承知のように、四高生が遭難しましたね、ボートでね。あの時丁度うちは地引網をやっておったんです。私がまだ、あれは15かね、そのくらいやと思うんやけど、昭和10年前後やったとおもうんですけどね、ちょうど、今津の長浜屋でお泊まりになって、予定でいくと船木を回って、船木崎から、直接、舞子の岬で昼に到着するという予定で、日程を組んでおられたと。
ところがたまたまその日になってね、今津港ではカガミ(ナギ)でした。その時の風は、特に雪もちょっと混じりました。ちょうど私とこでいうと、オオミゾに地引網の箇所がありますので、なんていうんですか、ようけ、いかんなあということで、その日は休漁で休んだんです。けれども、だいたいあの方達は、艇長になっておられる方がどうだったのか知りませんけどね。あれも、結局経験がなかったということで、漁業者側からいわせれば、そういえるわけですね。
船木を回ったら、風になった。今津はあほみたい話なんで出られたんですよ。さいぜんの話やないが、この風はどこを通ったら良いのかという航路を漁業者は考える。今津を出て、ずうーっと来て、モトノクチというて琵琶湖では一番深いところを通る。北側の向こう側の奥がね。
あそこになれば、とてもやないが回われませんわ、風になったら。船木を航行する漁師は琵琶湖中で一番苦しむ所です。船木を回るとなんとかカツノグチで突っ込むと、カモガワへ入ります。ここですね。今津から船木崎へ来て、まっすぐ雄松崎を目指そうものなら、とてもやない船もう通れませんよ、あのボートでは。それをまっすぐに雄松崎へ行こうとされた。沖をまっすぐ直行して、白鬚へ向いて進んだ。だから、大溝沖で、もう沈没してしもうたわけですね。はっきりいうて。


ここの風は何も恐いことはないんですわ。岸伝いにこの浦をずうーっとここ乗ってきたら風はあるが波が無いので、遭難もない、死なんでもよかったんです。風の力がわからんということですね、はっきりいうて。 この時には高島の大塚という漁業者が船木から一緒に出よったんですよ。そいつはエンジン付いてるんやけども、恐いからというので、浦を岸伝いにこう入ってきたんですよ。それが、四高生のボートはまっすぐ、雄松崎へ走ったんです。
うちも遭難の連絡を受けて、網を引いいてくれという話でね。うちのほうも、えらいワイヤを継ぎ足してね。ワイヤを500メートルぐらい出してね、網引いた経験があるんです。かかってきたのは雑誌とマント、靴、これはかかりましたけど、死体はあがらなんだ。最終的に、先生が一番沖であがられましたけどね。
結局は、もうそういうことは一番恐いんですわ。カツノグチ、カツノグチいうけんど、さっきもちょっと話しましたけど、丸子がカツノグチから出ると、沖島へ行くのに40分で渡れたんです。そういう風ばぁっといったら。丸子は大きいから少々吹いても、船の作りが違いますし、ボートと比較する事はできませんけど、そういうことがあったということを話しときます。

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