四高(現金沢大学)生のボ-ト遭難

                      1989.12.19.湖鮎ネットにUpしたもの
                      琵琶湖地域環境教育研究会   松井 一幸

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☆------------ BD21 [5557]AYU0169/1989-12-19 23:41:00/#3110 --------------
気象と伝説>四高(現金沢大学)生のボ-ト遭難 <KOMATU
 滋賀百年 毎日新聞社  昭和43年9月15日発行  松村英男編集 より転載
 昭和16年4月6日.朝方は比較的おだやかだった湖は昼前から荒れはじめ,吹雪まじりの北西の風がハダを刺す.

 ・・・中略・・・
 大溝(現在高島郡高島町)沖でボ-ト遭難.約10人絶望.

 ・・・中略・・・

 学生ボ-ト部のメッカ,大津市瀬田川川口はこの年も大学,旧制高校,専門学校ボ-ト部員のたくましいかけ声にあけくれていた.全国大会にそなえる全国高専ヨット界の雄,四高ヨット部員も春休みを利用,3月23日から猛練習に入っていた.練習最後の仕上げは,4日から3日間の遠漕だった.4日,四高生8人,先輩3人計11人の乗込んだ京大ボ-ト部の”加茂号”は石山湖岸をスタ-ト,夕方今津町長浜港にオ-ルをあげた.翌5日は休養.そして6日午前7時45分,四高生は帰路についた.だが,かれらはついに石山湖岸には帰ってこなかった.

 ・・・中略・・・

 湖は大荒れに荒れる.漁夫も湖岸に立ち尽くしたまま.「こうしけては11人は助かるまい・・・・」捜査員の顔に苦悩が走る.キバをむく三角波を突っ切り,現場付近まで”はやぶさ”ただ一隻がたどりついた.しかし,船体は木の葉のようにほんろうされ,捜索どころの騒ぎではなかった.

 ・・・中略・・・

 翌7日もしけはつづく.午前9時ごろ,沖ノ島東方で漁船がオ-ルを見つけた.「どこかに避難しているのでは・・・」みんなの祈りにも似た願いははかなくくずれ去ってしまった.

 8日,湖は平静に戻り,本格的な捜査が始まった.

 ・・・中略・・・

 11人の全遺体が確認されたのは遭難2ヶ月後.この間,遺族たちは大溝町に泊まり込み,わが子の帰りを湖岸で待ちわび,湖畔は悲しみに沈む.

 それから間もなく,11人の若い霊を慰める

   比良の白雪とけるとも
   風なお寒き志賀の浦
   オ-ルを揃えてサラバぞと
   しぶきに消えし若人よ

 哀調を帯びた琵琶湖哀歌が,野火の広がるように県下一円に広がった.だが,その感傷をとばすようにその年,日本は第二次世界大戦へ突入していった.

 ・・・中略・・・

 昭和35年に,35年間にわたる湖上パトロ-ルを引退した皆木さんは「湖はタライのようだとあなどる人がいるが,とんでもない話.四高生が遭難した大溝沖は三角波のとくにきついところで,あの朝,今津の人たちは出発を延ばすように説得したのだが・・・・,若さで乗切れると思ったのだろう」と話している.


 ここで,SNOWMANさんの本からも引用してみましょう.お許し下さい.今日図書館で,SNOWMANさんのすごい正体を発見しました.

SNOWMANさんの近江気象歳時記 近江文化叢書5 サンブライト出版より(P198)より転載

 この(四高生)ボ-ト部の遭難事故は,「比良八荒」によるものである.

 ・・・中略・・・

 この悲劇は「琵琶湖哀歌」に歌われ,萩ノ浜(高島町)には石碑が立っている.また,霊を弔って植えられた千本桜は,いまも萩ノ浜に美しい花を咲かせている.

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